2026/08/09 07:31
危険な暑さの毎日が続きますね。夏休みの子ども達に「外は危険だから出るな」みたいにSF映画の様なセリフを言って妙な気持ちになります。
政治もSF映画だか小説の様な状況ですね。先日可決されたばかりの国家情報局が開設されました。トップは統一教会と縁のある議員だそうです。もう言葉もありません。先日、久しぶりに小松左京の戦争をモチーフにした短編を読んでみたら、めちゃくちゃ気持ち悪くなりました。小松左京に限らず、戦後の戦争をモチーフにした作品は戦争を過去のものとして扱っていますが、今の私達にとってそれは遠くない未来…と言うか来年?再来年?みたいな状況なので。混乱します。
良い未来をイメージしたい。イメージして、努力をしたい。それしか言えません。
さて、今回は本の紹介ラスト回です。
「エキストリーム・センター」酒井隆史/山下雄大 編著

この本をラストに持ってきたのは、この本が自分の中の考えをまとめ上げる一つの到達点になったからです。今回は少し長くなるかも。自らを「右でも左でも無い」と自認する人には是非読んでみて欲しい。
誰もが逃れられない政治思想、それは右派、左派だけでは無かった。人類史において見えづらかった「エキストリーム・センター」の存在にスポットを当て、様々な領域の専門家によってフランスやイギリス、また現在日本のエキセン状況が多角的に考察されています。
そもそもエキストリーム・センターとは何か。直訳すると「過激な中道」を意味します。左右の政治思想の最も過激な先端である極右、極左になぞらえ「極中道」とも呼ばれます。フランスの歴史家、ピエール・セルナ氏の提唱が注目を集めています。
フランスの大統領と言えばエマニュエル・マクロンですが、現在フランスは非常にファシズム的な監視国家になっており、市民に対する暴力的な弾圧も凄まじいです。また、極右政党の台頭も著しい。なぜ、「右でも左でもなく前へ」を掲げ人気を博した中道のマクロン政権下でその様な事態になっているのか。
実は同じ様な事がフランス革命からナポレオン独裁が始まるまでの間に起こっていました。と言うか、世界の歴史の中でファシズムが台頭する前に似たような潮流が生まれている。右でも左でもない中道の、(恐らくは無自覚な)ファシズムを用意する動きが観測される。
これは非常に興味深いと思いました。特に日本に住んでいると、殆ど「右や左」に影響されずに生活できている気になります。ですが、今、現実として日本政治は極端に右傾化、及びファシズム化しています。じゃあそんな中で自分は何者であったのか?と考えずにはいられません。
ここでエキストリーム・センターを特徴づける3要素を引用します。
1.その場しのぎの「穏健」
これは自らの冷静、節度を示す事で、政治的対立から距離を置き、自らは「過激(エキストリーム)」でないと信頼性を担保する要素と思います。
2.「似たもの同士」の風見鶏ぶり
これはちょっと難しいですが、所謂「現実主義」の名においてその場その場で考えを変えていく要素と思われます。
3.いかなるイデオロギーや理論も必要としない
これはつまり「国会」の様なイデオロギーや理論が必要となる話し合い、議論よりも「執行権力」である政府の行動に重点を置く要素と思います。
これら3要素を自分に当てはめた時、政治に熱くなる過激なヤツを軽視し、思想強めで頭が硬いヤツを軽視し、国会なんて見た事も無かった自分を発見し愕然とします。正に俺じゃん、みたいな。
そしてこの様なエキストリーム・センターは、穏健である事を示しながらどちらかと言えば「左派」を攻撃する傾向にあります。日本においては説明するまでもありませんよね。反共集団である統一教会と癒着した自民党政権下で育った人間が「反共」「反・左派」を内面化しない事は相当難しいと実感しています。
さて、自分は「エキストリーム・センター」だったのか〜、で終わっても良いんですが、自分としては更に踏み込みたい。このブログで考察してきた音楽カルチャーの内包する「物語」の価値観に沿って考えてみたいと思います。
先程あげたエキストリーム・センターの3要素の3つ目「いかなるイデオロギーも理論も必要としない」。これは右も左も無い、正義も悪もない、などの相対主義と非常に親和性が高いと思います。寧ろ同じものなのかも。
これまでの考察を踏まえ、私は"ポストモダンの影響を受けたサブカル(音楽カルチャー含む)は、新自由主義下で生き延びる新たな「物語」として、あらゆる価値観を「等価」にする相対主義を採用している"と定義します。
その上で、エキストリーム・センターの前書きに引用されたファシズムという言葉の元祖、ファシスト党のムッソリーニの言葉を再読してみます。
「ファシズムは超相対主義的運動である。
〜われわれはファシストは、あらゆる理論にたいするわれわれの全き無関心をつねに表明してきた。
〜われわれファシストは、あらゆる伝統的な諸政治理論を捨てるだけの勇気をもちつづけてきた。しかもわれわれは、貴族主義者であると同時に民主主義者であり、革命主義者であると同時に反動主義者であり、プロレタリアートであると同時に反プロレタリアートであり、平和主義者であると同時に反平和主義者である。
〜あらゆるイデオロギーは等しい価値をもっているのだということ、および、あらゆるイデオロギーは単なる虚構にしかすぎないのだということから、現代の相対主義者は、次のように結論する。すなわち、何人も自分自身で独自のイデオロギーをつくり、可能な限りのあらゆる精力をふりしぼって、それが成就に努める自由をもっている、と。」
どうでしょうか。あれ?これ私の事では?と思う人もいるんじゃないでしょうか。自分はファシストだったのか?みたいに。しかしムッソリーニは言います。
「固定した点は一つだけもっていれば充分である。すなわち国民[ネイション]である。」
ここが、これからの日本で自分がファシストを選ぶかどうかの分かれ道になると思います。エキストリーム・センター、相対主義者のままで、今、そしてこれから日本政府が行ってくる再国民化的な政策に抗う事は困難と思います。
願わくば、音楽カルチャーは勿論、多くの人々が相対主義の硬い繭の外に出て、ファシズムに飲み込まれない様に手を取り合って戦いたいと思っています。
これにて長かった音楽カルチャー(サブカル)とファシズムの考察を終えます。もしずっと読んで下っていた方がおられましたら感謝を表明します。
CD発売中。