2026/05/10 11:03
最近は子どもも思春期に入りかかっており、なんちゅーアッと言う間に大きくなるんや…と毎日感慨深いです。彼が羽ばたいていく社会がこれからどうなっていくか。悪くなっていくでしょう。それはニュースなどで見るマクロな視点でも明らかですが、生活圏内のミクロな視点でもやはりそう思います。ですが、希望はある。それも又ハッキリと分かります。無理をせずに頑張りましょう。
さて、
この「正義も悪もない」「クソみたいな社会で」「右も左も関係なく」「好きな事だけやって」「みんなで」「生き延びよう」!
という音楽カルチャー周辺でよく聞く言葉を繋ぎ合わせた物語の解体ももう少しです。今回は「みんなで」です。この言葉はこの物語の主人公に当たりますね。…当たるんですが、みんなとは「誰」なんでしょうか。ここが凄くポイントだと思います。
音楽カルチャー周辺の、例えばSNSのフィルターバブルを観察していると、「私」「自分」の様な一人称はあまり見かけません。自分はこう思う、などの使い方はほぼ皆無だと思います。コロナ禍でよく聞いた「自分達の場所は自分達で守る」の様に、姿を現す時は大抵「みんな」であり個人では無い。再びの問いですが、この「みんな」とは誰でしょうか?
音楽カルチャー周辺の言葉で作られた物語である以上、その主人公である「みんな」とは「音楽好き」であるかも知れません。で、あるならそこに外国人や障害者やLGBTQの人や主婦(女性)も当然想定されている筈です。が、この音楽カルチャーの物語の中にそれらの人は含まれているでしょうか?もっと言うなら、ライブハウスでそれらの人を当たり前に、毎回の様に、見かける事はあったでしょうか?(自分はライブハウスカルチャーにいたのでこう思いますが、クラブは少し事情が違うかも)
自分に関して言えば答えはNOです。勿論いたのかも知れませんが、その属性の人として私自身の意識の中に現れる事は無かった。少なくとも私の中の「みんな」にはそれらの人は含まれていなかった、と認めざるを得ません。
「まさか自分がそんな冷たい人間の筈が無い…自分は皆を平等に見ているからそんな区別をしていないだけだ。それが音楽カルチャー内の良さ、自由と平等だろう」と思いたい所です。ですがそれは擬似的に作り出された自由、擬似的に作り出された平等です。
ライブハウスの階段を車椅子の人が降りれるでしょうか?人口の半分が女性ならライブハウスの店長の半分が女性であっても良い理屈だが実際はどうでしょうか?主婦や母になっても、連れ合いと同じだけ活動できる女性は既婚の男性と同数存在しているでしょうか?外国人だけのバンドと対バンした事はありますか?
この様に見ると、音楽カルチャーで使われる「みんな」とは決して「みんな」では無い。この解体シリーズの最初の方にも書きましたが、この物語(価値観)を支配する層こそが「みんな」であり、それは40、50代のオジサンであると思います。「みんな」とは「オレタチ」である、という事です。そしてそれは擬似的な自由と平等によって隠されている。(因みに、旧日本軍の中には擬似的な民主主義が存在していた、と言う研究もあります。興味深い。繋がった問題として捉えれそう…)
オジサン達の価値観の支配により、「みんな」が撹乱され、結果として本当の意味での「みんな」つまり「社会」という概念が意識から排除されている。と私は考えます。だからこそ、SNSなどの「ソーシャル」な場所で「私」として現れる事が難しくなる。そこで又ボンヤリとした「みんな」に埋没してしまう…。私自身も、そんな閉じた円環の中に囚われていた様に思います。
次回はいよいよラストですね。長かったなあ…。CD発売中です。新作も出したのですが、こちらも引き続き宣伝↓