2026/05/04 17:01

いやあ〜、文字通り日に日に暗黒へと加速していく高市政権&日本社会と、それに抗う全国的なうねり…凄いですね。自分もデモ行ったり1人で立ったりは相変わらずですが音源制作も並走して行っており大変でした。仕事家事育児だとかの生活も維持しなきゃいけないし、正にてんやわんや。おかげで又もブログが遅れてスミマセン。


しかしまあ、その普通の生活も原油やナフサ不足により5月以降は崩壊に向かうだろう、とは思っており、これからは家族との大切な時間や家族の命を守る事を優先して闘っていこうと思っています。勿論そうならない為に行動してる訳ですが、正直な所、このままでは人が足りないと思っています。今までに無い様な民主主義のうねりは凄いものがありますが、それでも足りない。


今まで黙っていたミュージシャンもちらほらとは言え「戦争反対」「殺傷武器輸出反対」「改憲反対」…と意思表示を始めましたが、余りにも遅すぎた。それらの政策を進めていた自民に圧倒的な議席数を与える前に意思表示すべきでした。でも勿論大切な事です。


何故なら、それよりもっともっと多い国民の大多数は、今のまま口をつぐんで戦争への道を傍観、或いは推進すると思うからです。実際、自分の周囲のミュージシャンは何も変わらず、変顔だったり笑顔の写真をアップしてふざけているし、かと思えばネトウヨ言説を拡散したりでもう手も足も出ない。まあ自分は自分の生き方を貫くだけですね。ファシズムが更に進行して法的に無理になったらその時はまた考えます。アッと言う間にその時が来そうですが。


さて、今回も前回からの続きを。


この「正義も悪もない」「クソみたいな社会で」「右も左も関係なく」「好きな事だけやって」「みんなで」「生き延びよう」!


この音楽カルチャー周辺で共有される言語を繋ぎ合わせた物語とそれが表す価値観の解体、今回は「好きな事だけやって」です。「やりたい事だけ」とかもありますね。


好きな事だけやって…いいですね。しかし引っかかります。これまで見てきた文章は、基本的にすり替えの技術で、民主主義における責任を隠す効果を持つ文章でした。この「好きな事だけやって」も同様に隠していそうです。


好きな事だけ、やりたい事だけやって生きていく、みたいな価値観は自分が幼い頃はあまり聞かれませんでした。どちらかと言えば嫌なこともやるのが「大人」である、と言う物言いの方がよく聞いた。今は全くと言って良いほど聞きませんね。これが、イヤやりたい事だけやって生きていくのが良い…に入れ替わり始めたのはいつ頃でしょうか?自分に関して言えば、バンドの"たま"を追った2010のドキュメンタリー映画「たまの映画」のキャッチコピー「やりたいことだけ」に「おお!」と思ったのが最初だった様に思います。


上記のキャッチコピーの様な空気はその頃の時代の空気として現れており、ローカルな音楽コミュニティでもメジャーデビューして売れる、と言うロールモデルに対して「やりたい事でささやかながら稼ぐ」の様な価値観が発生していたと思います。この価値観がコミュニティの年齢や内面化した新自由主義と合致した。資本主義の物語を「超越」して辿り着いたのは、結局は新自由主義の物語だった、とも言えそうです。


自分はやりたい事(この場合は音楽性)をやって稼ぐ事自体は歓迎しています。型にハマったロールモデルでしか音楽を続けられない、なんて多様性に反しますし。ですが問題なのは、音楽の領域で扱う新自由主義的な価値観を、そのまま社会を見る時のフレームとして転用する場合です。(と言うか私達はまともな主権者教育を受けていないのでそれは不可避だと思いますが)


その場合の好きなこと以外として排除されるものは何でしょうか?仕事やゴミ出しじゃないすよね。過去の自分の考えを今の自分が言語化するなら、一言で言えば「政治的な意思表示」です。同調圧力の強い社会では、政治的な意思表示…即ち民主主義的な行動が、新自由主義的なフレームでの成功…例えば集客、売り上げ、コネクションの醸成において不利に働く(と意識される)からです。それはコミュニティでの生存に関わる事でしょう。まとめるなら


音楽カルチャーに参加する事で、音楽周辺の言語空間に染まり、そこで染みついた新自由主義的価値観で社会を捉える時、その社会の当事者である筈の自分から民主主義が排除される。「好きなことだけやって」の本質は、何をやらないか、であり、その答えは民主主義だった、と言う事だと思います。


おお〜長くなった。CD発売中です。新作もお楽しみに。けどこれ↓も買ってね。