2026/04/19 15:14

だいぶ良い陽気になってきました。今年も酷暑になるのでしょうが。うちの子どもは熱が篭りやすいので心配です。


しかしアメリカのイラン攻撃に端を発した原油、ナフサ不足による日本の物資不足も心配です。ただでさえ物価高がボディブローの様に効いている中、値上げ云々以前に物が無くなるかも知れないのですから。それは仕事、国内経済にも打撃がある事は必至です。今後の見通しは自分にはよく分かりませんが、少なくともイランは交渉を伝えているのにそれを蹴り続けている高市政権に責任がある事は忘れずにいましょう。中国からのレアアースなんかもそうですが。


さて、前回からの続きを。前回までで


この「正義も悪もない」「クソみたいな社会で」「右も左も関係なく」「好きな事だけやって」「みんなで」「生き延びよう」!


という音楽カルチャーに観察できる物語の舞台「正義も悪もない」「クソみたいな社会」を考察しました。そもそもが正義も悪もない、と言う虚構のレトリックに成り立っており、その虚構の社会を「クソ」とラベリングする事で民主主義からの逃避/超越の根拠としているのでは、というのが私の考えです。クソなのは社会というより具体的な政治権力なんですがね。


今回からは「右も左も関係ない」です。これは大変そうだ。右も左も関係ない…これはつまり思想などという個人を縛るものから自由である、という立場表明と思われます。確かに、日常生活やコミュニケーションの中で現れる選択肢において「右や左」の思想に左右される事は、個人の自由意思をコントロールされている様に感じなくもありません。てか、自分はそうだったと思います。


ですが果たしてそれは正確なのでしょうか?その、左右の政治思想から脱却する「脱・政治化」の思考回路自体が、特定の政治思想と並走したものでは無いでしょうか。この脱・政治化は冷戦後、日本で言えば自民党(右)と社会党(左)が連立を組んでいた90年代後半には必然的な流れではあったと私は考えます。政治レベルで「右も左も関係なく」が(一見)果たされていたのですから。


ここにおいて、右も左も上も下も無い、超フラットに社会を認識する相対主義がカルチャーのレベルでも高まったと思います。擬似的な平等化と言うか。ポストモダン思想のお茶の間化と言うか。今振り返れば幼いとしか思えませんが。


ですがそこから自民党が再び政権を取り30年近く経った(一瞬民主党政権があったが)現在、日本は「極右」とさえ呼ばれる政権に支配されています。その中で「右も左も関係ない」視点で社会生活を認識する事は、結局のところ自民党の思想を不可視化する事に繋がっており、早い話が「右」を利する態度であると思います。


現在注目されている、フランスの歴史家/革命史研究の権威ピエール・セルナが提唱する「エキストリーム・センター(過激な中道/極中道)」もこの文脈に当たると思います。世界的な視点で見ても、似たような事象が起こっている。「右でも左でも無く前へ」と謳うマクロン政権が極右政党の伸長をもたらし、結果ファシズムを用意してしまっている…の様に。


民主主義社会に参加する以上は「右も左も関係ない」人などおらず、無理にそれを推し進める事は少なくとも右派政権下では「右」に属する。そして極端な中道はファシズムを準備する。音楽に限りませんが、カルチャーはこの辺りを真剣に自律しないといけない…いけなかった、と思います。最後にそのセルナの言葉を記して終わります。


「硬直したイデオロギーにしがみついていては良いファシストにはなれない」


この言葉から、右も左も棄却する事を偏重した自分とは何者であったか、を考える日々です。


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