2026/03/08 14:23
高市が再び総理大臣となってからは、一週間の間に吐きそうな出来事が起こりすぎていて本当にヤバい以外の言葉が見つからないです。「高市鬱」なんて言葉が出てくるのも当然で、多分本当に体調を崩している人が既にいると思います。
まるでジェットコースターに乗っている様な日々ですが、そのジェットコースターでこの社会の大多数のいる場所から吹っ飛ばされているのは、恐らく暗澹たる気持ちでも何とか報道から情報を得ようとしている人々の方であろう…という所が本当に恐ろしいです。
誰かが「何故、他国で排除、或いは抵抗できている統一協会やエプスタインファイル関連やピーター・ティールのパランティアが日本に膿の様に溜まっていくんだ」と呟いておられたが、個人的には当然の帰結と感じます。日本という国、その社会が世界でも異形の脱・政治化社会になっている為です。
「右も左もみんな違ってみんないい」の極北の社会は、カルトに対してあまりに脆弱であり、危険性を認識すらできない…という社会実験の結果を見ている様ですが、結果はまだまだこれからで、私達皆がそれを今から体験するのでしょう。私は巻き添えは勘弁ですが、大人しか止められない事でしょうし、責任を全うしたいと思います。
最近は前置きが長くなってしまう…。前回の続きを始めます。前置きとかなり密接な関係があるとは思います。前回は音楽カルチャー周辺でよく聞く言葉を文章にしてみました。即ち
この「正義も悪もない」、「クソみたいな社会」で、「自分が好きな事だけ」やって、「右も左も関係なく」、(音楽を愛する)「みんなで」一緒に「生きのびよう!」
というものです。鉤括弧の中の言葉は様々なバリエーションがあると思われますが概ねこんな感じでしょう。ここからどんな価値観が読み取れるでしょうか。又、それは現在のファシズムに向かう社会状況と照らしてどの様な関係があるでしょうか。
まず気付かされる事が、これは「物語」である、という事です。普段は別の文脈で語られる特徴的な言葉群は、音楽カルチャー(の支配的な層)で共有される物語の断片であった、と逆説的に説明できると思います。物語の舞台となる世界があり(このクソみたいな社会)、主人公がおり(右も左も関係ないみんな)、目的(生き延びよう)がある。
結論から言えば、この物語への参加によって得られる疑似的な「自由」こそが、音楽カルチャーの共有する価値観であると思います。次回からはこの文章を更に細かく解体し、なぜそれが「疑似的な自由」なのか、その自由と社会の関係を考察していきたいと思います。
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