2025/12/20 12:06
さてさて、今回はコロナ禍での寄付活動中に疑問が膨らんできた、という所からでしたね。少し振り返りから始めます。
コロナ禍でライブ活動をしながらドネーションCDを売り、その日のハコに寄付していましたが、お察しの通り雀の涙にもなりません。でもまあ、思いを寄せている事は伝えたかったのでそこは割り切っていました。何より、私の行動は過去にCDを作成しているアーティストなら誰でもとれる方法だったので、これが広まって欲しかった。でもダメでしたね。自分の努力不足でしょう。
さて、そんな中、ライブハウスでコロナ禍を考えるミーティングの様な催しが行われました。名古屋の横の繋がりのあるハコの代表がステージで放談するイベントでした。これは興味深いと思い観に行ったのですが、そこで何かしっくりこなかった。今思えば、行政に対する批判の様な、この状況の政治化が行われず、どちらかと言えば精神的な話に終始していると感じた事が原因だと思います。個々の努力が重視されていた印象でした。それは即ちD.I.Yの精神なんでしょうが、そこに疑問を感じました。
コロナ禍がライブハウスに牙を剥き始めた頃から耳にしていた「自分達の場所は自分達で守る」という精神に、うん?と思い始めました。音楽シーンで語られる"自分達"とは、"この場所"とは、を考えた時、そこにカルチャーと社会/政治との連続性が見えない事に気づきました。
それはカルチャーの精神の独立を保つ為の姿勢なのかも知れないが、この状況の打開を個々の努力に求めるのは「自己責任論」と親和性があるのでは?それは非常に権力にとって都合が良く、守るべきカルチャーの精神が望まぬ形で政治権力と融合している様に思いました。当時、海外のクラブシーンの記事などを読んでいたので、その政治に対するアクティブな姿勢との乖離を感じ取ったのかも知れません。
振り返ると、コロナ禍はアーティストに少なく無い精神的な影響を与えたと思います。陰謀論に傾いた知り合いなども1人2人では無い。これはカルチャー、サブカルの政治性を排した言語空間に原因があると思います。自分自身もこれまで持っていた言語では整理できない思考が溜まっていきました。
コロナ禍でカルチャーは脱・脱政治化が行われるべきだったと思います。だがそうはならなかった。それ自体に非常に興味深い構造を見出すのですが、その話はまたいつか。
さてその後、ロシアのウクライナ侵攻が始まります。次回はその辺りの話にしようかなと。
CD発売しています。UNRWAへの寄付は終了しました。